高知家IT・コンテンツネットワーク インタビュー

武市 智行 氏(第2回)

高知家IT・コンテンツネットワークでは、高知県にゆかりのあるIT・コンテンツの分野で活躍する人たちへのインタビューを行ってまいります。第1弾は、高知県コンテンツ産業振興アドバイザーで、株式会社スクウェア(現スクウェア・エニックス・ホールディングス)をはじめ、多くのベンチャー企業の成長を支えてこられている武市智行氏にお話を伺いました。

第2回は、激変するゲーム業界で会社の成長とチャレンジを両立させたマネジメントについてのお話をご紹介します。

武市 智行 氏(高知県コンテンツ産業振興アドバイザー)

 

高知県出身。株式会社スクウェア(現スクウェア・エニックス・ホールディングス)代表取締役社長、株式会社AQインタラクティブ(現マーベラス)代表取締役社長、社団法人コンピュータエンターテインメントソフトウェア協会(CESA)副会長、社団法人日本レコード協会監事などを歴任し、現在も高知で創業した株式会社SHIFT PLUS取締役会長、株式会社アルファコード取締役、株式会社Aiming社外取締役、株式会社GameWith社外取締役などを務めている。

また、2010年に高知県産業振興スーパーバイザーに就任し、現在は高知県コンテンツ産業振興アドバイザーとして高知県の産業振興に尽力されている。

驚きと感動を生み続けるマネジメント力

ファミコンからプレイステーション2まで、ハードウェアの進化で、技術、人の双方で、次々と大きな先行投資が必要となる中、ゲーム会社は生き残りが難しい時代へ突入する。激変の時代に武市氏は、チャレンジができる環境と会社の成長を、どのように維持していったのか。

 

――ファミコンからスーパーファミコン、プレイステーション、プレイステーション2とハードウェアが進化して表現力が上がるにつれ、技術的な先行投資が必要だったと思いますが、どのように対応していたのでしょうか。

 プラットフォームの移行期は、一番のビジネスチャンスでもあり、新しい驚きと感動を与えることができます。それぞれの移行期で、資金的にどのような対応をしたかをお話しすると、まず、ファミコンからスーパーファミコンへの移行期は、内部留保と銀行借入での対応でした。

 

 スーパーファミコンからプレイステーションへの移行期になると、内部留保のほか、上場時に調達した資金で対応しましたが、1タイトルあたりの制作人員が急増したことや、3DCGに対応するハードやソフトの購入などで、大きな投資が必要になってきました。

 

 スーパーファミコン時代は1タイトルあたり、50、60人の体制で10億円未満のコストで作っていたのが、プレイステーションに移って「ファイナルファンタジーⅦ」になると、150人で40億という規模になってきました。

 

 このときは、資金的なことだけではなく、CGクリエイターの確保が大変でした。プレイステーションからプレイステーション2への移行期も同様で、コンピュータへの投資と人材の確保に力を注ぎました。

 

――高度な表現が求められると、それを創る技術を持った人材が不足するという問題が発生すると思いますが、どのように対応していたのでしょうか。

 

 最初の頃は、デザイン力のある学生たちにアルバイトで来てもらって、お金を払いながら教育をしていました。そして、アルバイトの人たちの中で、理解力のある人やセンスのある人を見つけて、「うちの会社に入らないか?」と正社員へスカウトをしていきました。当時は、学生たちのために短期の学校をやっているような感覚でした。

 

 CGは外注費もかかりました。CGというのは、それまでゲームの世界では使われていなかった。一方で、映像の世界では、「ジュラシックパーク」などに見られるように、すでにCGクリエイターがいました。だから、ほかの産業にいる彼らをゲームの世界に連れて来ないといけない。最初はそういった人たちへ発注をしていました。なので、CGを使い始めた「ファイナルファンタジーⅦ」のときは、外注のCGクリエイターが大勢いました。そこから徐々に内部に入ってきてもらったり、採用した人たちが成長してくれたので、CGクリエイターだけで200人を超える体制となりました。

 

 そこから映画の世界へも将来的な進出を考えていける。デジタルエンタテインメントの世界で勝つには、映像ができないといけない。CGで全てのモノが表現できたら、想像できるものや文学作品もすぐに映像や映画にできるし、あらゆる事業分野を対象にビジネスができます。また、映像の世界の優秀な人たちがゲームの世界に入ってくるために、フルCGで映画を作る予定があるということも、大事な戦略でした。

 

――1タイトルあたりのコストが膨大になっていく中でチャレンジを続けるのは難しかったのではないでしょうか。

 

 1本40億円という数字になると、「ファイナルファンタジー」、「サガシリーズ」、「聖剣伝説」などの実績があるタイトルの続編であれば、ある程度売り上げの予測も立つので、投資ができました。しかし、初めて立ち上げるタイトルでは、売れ行きの予測も難しくなり、いきなり40億という話にはならない。なので、チャレンジをする人が、どのくらいの目標で、事業計画を立てているのかを見て、回収ギリギリのラインまでは投資をしていこうと判断していました。

 

 1994年に店頭公開、2000年に東証一部上場を果たして、資金調達力が高かったのと、内部留保もあり、資金面では潤沢でした。資金に余力がないとチャレンジはできません。上場することで、財務基盤が万全となり、積極的な投資ができました。

大きな戦略の中でチャレンジを重ねる

 チャレンジできる環境で人気タイトルを生み続けたスクウェアは、スーパーマリオやキングダムハーツなど、外部のコンテンツとの連携も実現させながら市場を拡大させる。チャレンジの広がりはどのようにして生まれたのか。

 

―― 1996年には任天堂との提携によるスーパーマリオRPG、2002年にはウォルト・ディズニー社との提携によるキングダムハーツを制作されています。外の大きな会社と組んでいくというのも、新しいチャレンジの一つだったのでしょうか。

 

 当時は会社として、ユーザの年齢層の拡大と海外へのエリアの拡大や、映像事業やネット事業などへの展開などの戦略を描いていて、スーパーマリオRPGやキングダムハーツも、その中のチャレンジとして、ひとつずつ優先順位を決めてやっていきました。

 

 スーパーマリオRPGは、年齢層の拡大としてのチャレンジでした。従来のファイナルファンタジーやドラゴンクエストといったRPGのユーザ年齢は、スーパーマリオのようなアクションゲームより年齢的には少し高く、やり抜くには知力・体力・気力が必要でした。

 

 アクションゲームを楽しんでいる年齢の低い人たちにもRPGを楽しんでほしかったので、マリオが活躍するRPGにしたら興味を示してくれるのではないかという想いがありました。また、次に述べるとおり、海外では日本のRPGはあまり売れなかったので、その面でも、スーパーマリオというキャラクターの力をお借りしたいという想いもありました。

 

 キングダムハーツは、エリアの拡大の中でのチャレンジです。ファイナルファンタジーやドラゴンクエストは、日本では売れるけど、スーパーファミコンの頃は海外では「ジャパニーズRPG」と呼ばれて売れなかった。「ファイナルファンタジーⅥ」も北米で40万本しか売れなかった。のちのタイトルは全世界で1,000万本を数えるようになりますが、当時はまだ「ジャパニーズRPG」は海外に馴染んでいなかった。世界中で日本のRPGで遊んでもらうために、ディズニーのキャラクターたちの力をお借りしました。

 

 企画を持ち込んだ当時、ディズニーの26種類のキャラクターを、すべて3DCG映像で表現をして、動かしてみせました。3Dで反転させたりして、「フルCGでキャラクターたちがこんなに遊ぶんですよ」と示した。この頃はディズニーですら、自分たちで3Dの表現をしていなかったようで、こちらから「我々と一緒にやりませんか」と呼びかけると、ディズニーの経営陣がみんな喜んでくれて、応諾してもらうことができました。おかげさまで、全世界でのヒット作となりました。

 

(聞き手 原 亮/エイチタス株式会社 代表取締役)

©2017 KICNETWORK.